信仰対象を諮るお神籤、への哄笑

テレ朝版ダークナイトの芳忠ボイスに中毒になってた時期に書いたやつなので、鴉頭の人に若干フィルター掛かってる。


 元日、雨天の朝。

 生憎の空模様とはいえ、小雨ということもあってか、年明けの境内は例年と変わらず人で溢れかえっていた。
 破魔矢を買ったりお参りをしたり、各々好き好きに動いているにも関わらず、人海のそこかしこで成される列はどれも乱れる気配がない。こういうのを日本人気質とでもいうのだろうか。
 とんとんと手刀を切りながら身を屈めて列を横切っていくどこかの誰かの所作をぼんやり眺めていた僕は、その様子に何を思うわけでもなく──視線を戻すべく頭を垂れた。

 手元には、ついさっき引いたばかりのおみくじが一枚。
 このおみくじを、破り捨てるか否か。
 それを未だに決めかねて、僕は小雨に打たれ続けている。

 境内にはちゃんと結び処があって、用意されたその柵は既にたくさんのおみくじが結び付けられている。思わしくない結果が出た時に悪運を持ち帰らないようにするための──いってみれば悪運限定のごみ集積所だ。
 僕にも、自分で引いたおみくじをそこに結び置いていくという選択肢も、あるにはある。でも、そんな一手間さえ馬鹿馬鹿しく且つ煩わしく思ってしまうほど、迷信だの験担ぎでしかないだのと蔑んだ見方をしてしまうほど、今僕の心には余裕がない。
 寒さに耐えつつ並び続けて、鬱々と過ごした去年より少しでも良い運勢になるようにとお参りをして、答えを聞くべく引いたおみくじに『叶いがたい』だの『信心しろ』だの告げられては──
 切り替えようにも気持ちはますます荒んでしまう。
 
 信心。信心かあ。
 充分、信じているつもりなんだけど、なあ。
 などと独り言ちながら、両手の親指と人差し指で『末吉』と書かれたおみくじをつまみ持つ。
 このまま手首をちょいと捻りさえすれば、びりりという乾いた音と共におみくじは真っ二つになる。ただの、文字の書かれた紙切れになる。『おみくじを引いた』という事実をなかったことにできる。周りがうるさくてお願い事に集中できていなかったからなどと屁理屈をこねて聞き流して、また改めて引き直せば同じことだ。

 それは。でもやっぱり。
 ──『悪い』ことなんだよな。きっと。
 感情と理性に板挟みにされた心はどちらにも傾けず、面倒臭くなった僕はおみくじを折り畳んで上着のポケットに突っ込んだ。

「別に、『悪い』ことではないと思うがね」

 ざぐ。
 と、傍らで誰かが砂利を踏んだ。

「は、」

 ダウン越しに腕に触れた『何か』の気配にふ、と横を見やると。
 着物のような不可思議な衣装に身を包んだ男の人が、僕の隣に立っていた。

「君が『そうしたい』なら、従うべきだろう」

 なあ。
 同意を求めるように聞き返されて、言葉に詰まる。

「え、あの。まあ、そう──とも、いえないような」

 どちらさま、とか。あんた誰、とか。
 漫画や映画の中だったなら多分、主人公は突然現れた謎の人物に対してオーバーリアクションと共に無礼のブの字も気にせず強気に訊くことができるのだろう。
 でも生憎とここは現実で、僕は架空の存在ではないので、見知らぬ誰か相手とはいえ人並み程度に礼儀は気にする。し、正面へ回って顔をガン見できるほど気も強くない。

「そうか? 何故そう思う?」
「え゛ぁ。えー、と」

 おみくじを、破くか否か。
 僕が散々悩んで結局決められず保留にした、あの選択のことだろう。
 見慣れない服を着ていることと、聞き覚えのない声であることから赤の他人であることは確定済みだ。なのに僕は、突然振られた話のテーマが何なのか、直感的ながら確信を持てている。

「そりゃあ、だって。そんなの、罰当たりな真似ですし」

 とか何とか答えながら、ちら、と横目で彼の服を見やる。
 二枚ばかり重ね着した衣の上から、耳かきのふわふわしたとこみたいなものを垂れ下げている。下に穿いているのは袴だろうけど──何だろう、この着方。羽織袴、とはまた違うのだろうか。神主さんとかお坊さんとか、そういう職種に絡んでいそうな出で立ちではある。

「ほう、『罰』だと」

 そりゃあ剣呑だなと言いながら、彼は腕を組んだ姿勢で不意に顔だけこちらを向いた。
 かっちりと撫でつけた黒髪と、唇の上にぴしっと収まった黒い髭。目元と口元に薄く刻まれた皺が、彼が決して年若くないであろうことを示している。オールバックの髪型といい髭の剃り方といい、着物よりスーツの方が似合いそうな面立ちだ。
 僕の視線に気付いたのか、それとも単に僕の発したワードに関心を向けたついでの所作かもしれない。

「一体、誰が当てるのかね。君に」
「え、かッ──神様以外に、いますか誰か」

 逆に聞き返したあとで、やや喧嘩腰になってしまったことを反省する。
 あまりにも分かりきったようなことを素ッ惚けた馴れ馴れしい口調で訊いてくるものだから、こちらもつい遠慮をすることを忘れてしまった。

「神が出てくるほど、大仰な罪でもなかろう」

 たかが紙切れを破くくらい。
 僕の答えを鼻で笑い飛ばす彼の様子を見るに、幸い機嫌を損ねてはいないようだ。

「君の望む結果ではなかったんだろ? なら捨てちまえばいいじゃないか」
「い、いや。そういうわけにもいかない、じゃないですか」
「何で」

 何で、って。

「だって、これがおみくじの結果なわけですから」
「うん。だから、その『結果』はしかし君の好きな中身ではなかったんだろ?」
「や、僕の好みとか、望む望まないは関係なくて。おみくじに記されている中身って、『引いた人のお願いに対する神様のお答え』、じゃないですか。だから、軽率に破って捨てるのはいかがなものかと思って、ですね」

 僕らの周りで蠢く人々は、誰もこちらに目を向けてこない。
 どこででも見掛ける一人の人間、或いは通行の際に少々障害となるだけの存在、とでもいわんばかりに、さかさかと脇を通り越していったり、近くで談笑したりしている。
 この小雨の降る寒空の下で、ダウンも着ていなければ傘も差していない──薄っぺらそうな和服を着込めただけのこの人の格好は比較的奇抜で、確かに目立っている。それでも周りの人が僕らの方へちらりとでも一瞥をくれないのは、神社だろうと観光地だろうと、どこにいようが人間結局は他人事だからなのかもしれない。

 と──間怠っこしさを押し隠して持論を展開させる一方で僕は、周囲が無反応で居続ける理由についても思考を巡らせる。

 単純に。
 彼が、『僕以外の人には見えない存在』だから、だったりして。

 ──いや。まさかそんな。
 ふと湧いた発想はあまりにも非現実的だったので、気付かなかったふりをする。

 でも。
 ネットや友人知人から見聞き囓って覚えた『心掛け』を解説する僕を見る彼の、心底不思議そうなその顔つきが──
 たった今気付かないふりをした閃きを事実だと裏付けているかのようで。

「たかがくじ引きじゃあないか」

 そうして、こくん、と首を傾げた彼の口から零れた感想が。
 信仰のシの字どころか概念自体を知らないような──
 無知というより『次元が違う』とでもいうような──
 そんな得体の知れなさを感じさせられて、少し薄気味悪くなった。

「商店街の福引きとやらとどこか違うのかね」
「福引きと一緒にしちゃ、それこそ罰当たりだと思うんですけど」
「どちらも当たり外れに一喜一憂するものだろ? どう違うんだ」
「おみくじは当たり外れじゃなくて──ここに書かれているのは神様からのお言葉で、その引いた人だけに向けられた、意思でもあって」

 意思。
 なけなしの語彙をかき集めている際にふと思いついて放ったそれを──彼はきょとんと瞬いて繰り返した。

「くじ引きが? 神の答えで、意思だと?」
「そっ──そういうものでしょ。おみくじ、って。だから」

 だから。
 と先を続けるべく舌に載せた接続詞は、

「信じたくないけど、『信じるしかないから』信じてる?」

 彼の、核心を突くような鋭い一言にぴしり、と遮られた。

「う゛」
「だから破くことを躊躇っていると?」

 本心を言い当てられた僕は、言葉を喉に詰まらせる。
 まさに、『そこ』だった。
 日頃滅多に引くことのないものだからこそ、と意気込んで参拝しておきながら、時と場合によって素直に受け取ったり心を荒ませたりしている──中途半端な僕の信仰心は。
 とどのつまり、不安定な『それ』が土台になっているせいで、結果というものにぐらつきやすいのだ。

「ま──」

 聞き手の顔色は変わらない。黙って僕の返事を待っている。

「まあ──はい。それがおみくじの結果なら、信じるしか、ないわけだし」

 多分、奥底に燻る黒い思いを言い当てられたせいだろう。
 誤魔化しは通用しないと勝手に悟った僕の口調は、意識していないにも関わらずすっかり気弱になっていた。

 新年早々、最悪だ。
 どこの誰とも知らない、赤の他人と言い合って。
 結果、不安定な信仰心を見透かされることになるなんて、恥曝しもいいところだ。

「──ふ」

 吹き出すような、呼気が漏れた。

 また鼻で笑われたものと、てっきりそう思った僕は反応するのが一瞬遅れた。
 赤面するのを隠すべく項垂れた直後のことだったから、というのもある。二度目に呼気が漏れ出たところで、僕は音を追うように顔を上げた。

「ふ、ふふ──っは、ひ、ぃははッ!」

 端正な面立ちは一瞬にして崩れた。
 ぴんと吊り上がっていた両目は弧を描くように歪んで、そして。
 小刻みに揺れる髭の下、大きく開いた唇の奥。暗い咥内に一瞬だけ──

 細く黒い、先が二股に分かれた舌が。
 生き物のように蠢くのが見えた。

「え、何──何、で。何っ」
「ははッ、ほ──本気かね、君ッ。ひひ、は、はは・はッ!」

 彼はすぐに僕から顔を逸らして、甲高い笑い声をぽんぽんと上げていく。
 体をくの字に曲げて、びくびくと、痙攣する腹を押さえるように身を縮こまらせる。
 これだけの勢いで笑い飛ばされていながら、それでも気分を悪くする余裕は今の僕にはなかった。
 口の中に見えた舌がどう見ても人のそれではなかったというのもあるけど、一番はその──
 笑っている彼の横顔が、ほとんど狂っているかのような、ちょっとツボにハマりすぎの一言では言い表しきれない形を成しているのが、怖かったのだ。

「ふふ、ふっ──は、そりゃあなかなかに──っひひ、なかなかに、愚鈍な質じゃあないか、ひは・は! いやぁいいなあ! 私は好きだよそういうの、っくふ」

 大笑いは段々と窄まっていき、ふふ、んふふ、という含み笑いへと変じていく。
 とはいえ、口を固く閉じて鼻先から笑いを逃している様子を見る分には、別に笑いの波自体が去ったとかそういうわけではなくむしろあまりに笑いすぎて苦しいから抑えようとしている、というふうに見て取れる。
 垂れ下がった目尻から皺を伝い、生理的なものらしい一筋の涙が流れていく。つい一昨日見ていたバラエティ番組で、笑いながら目元を指で拭う女性タレントの仕草をふと思い出した。
 笑いながら涙を流す人って現実にいるんだ。テレビ特有のやらせか何かと思ってた、とか何とか。
 場違いな感想を産出する僕の脳みそは、よほど目の前の光景に困惑しているらしい。

「そ、んなに、笑います?」
「ひひ──いや、すまん。とんだ勘違いをまぁ、後生大事に盲信してきたものだと思ってね」

 勘違い。

「神の『意思』ではない。君の『意地』さ」

 ひとしきり笑って落ち着いたのか、彼は言いながら再びこちらに顔を向けた。

「僕、の」
「そう君のイジ。意思でもあるがまぁ、意地という方が正しかろう。どちらにせよ、頭に『君の』がつく」

 神はそこにいない。
 付け足された一声は、ついさっき甲高い笑声を放った、同じ声帯から発されたものとは思えない程重く低かった。
 ついさっき大笑いをしてみせた痕跡は、どのパーツにも残っていない。言葉を交わし始めた時と変わらない端正さを帯びて、そこに『貼り付いている』。

「良い結果はもちろん『信じたい』。だが、良い結果を信じるのなら必然的に悪い結果も『信じねばならない』。それが君の信念なんだな? ウン?」
「し、信念っていうか」
「シンネンなんだよウン。信念であり『君が定めた君だけのルール』だ」

 分からないかい、ナァ、坊や。
 作り物のような顔をずい、と近付けられて、僕は思わず上体を引く。

「『ご都合主義な奴に成り果てたくない』からと『自分ルールで己を縛る』のは止めた方がいいぞォ。窮~屈で、うざッッたくて、毒でしかない」

 言いながら、彼は素早く僕に半身を寄せて腕を伸ばす。
 腰の辺りを掠めた掌の感触に、肩を竦めて身を引いた時──
 ポケットの中から、ずるり、と何かが抜け出ていくのが見えた。

「ついでに、そういう連中を偉そォに見下す無意識の自己にも気付きたまえ」
「──あっ」

 顔の高さで左右に振られる白い指の、その先端。
 見覚えのある番号が書かれた紙切れが、折り畳んだまま抓まれている。

「良い結果を信じたいのは欲望だが、悪い結果を信じねばならんのは義務だ。なぁ坊や!」
「ちょ、かっ──返してくださいっ」

 早業で盗まれたおみくじ目掛けて、腕を伸ばす。
 飛びつくように伸ばした指はしかし、目当てのものを奪取できずに空を切る。
 腕を引いたり掲げたり、ひらりひらりと身軽に僕の手を躱しつつ──欲望と義務を戦わせてみろォ勝敗は一目瞭然だ、とおみくじ泥棒は更に煽る。

「その結果はしかし君が、己が認めたくない『ご都合主義な奴でしかない』という証明にもなってしまう。だから渋々義務を勝たせている。つまるところ結局君が信仰しているのはァ!」
「違っ」

 違う。
 僕は本当に、神様を。その存在を。

「『神』ではなく、『君自身の理想像』というわけだ」

 虚空を彷徨うおみくじが静止した、その隙を突いて引ったくる。
 自分の胸に抱き止めたそれを、破れてはいないかと広げてみる。小雨に打たれたか多少湿ってはいたものの、幸い文字は潰れていなかった。

 ふと、視線を感じて顔を上げると。
 参拝客ら全員が、生気の抜けた顔を僕に向けていた。

「っひ」

 色のない無数の眼差しに圧された心身が、バランスを失いかける。
 咄嗟のことで受け身を取れずそのまま尻餅をついた、その刹那──
 せっかく取り返したおみくじの、そのかさついた感触が手を離れていった。

「あ」

 上体を捻って手元を探すも、それらしき白色は見当たらない。
 黒や灰色、時々赤茶、びっしりと敷き詰められた砂利の上で静かに横たわっているのは枯れ葉ばかりで、それらは全て大勢の忙しない足取りで蹴散らされていく。
 手近の周囲をそっと窺うと、参拝客は先程と同様に誰もが己の目的にばかり目を向けていて、一人としてこちらを見ている者はいなかった。

 白昼夢か、或いは幻覚か。
 ついさっき確かに目にしたあの不気味な光景は──とはいえ一瞬だったので、本当に見たのか、今の僕には自分の目を信じ切られない。
 人海が波打つ様を四つん這いの体勢で眺めていると、やがて視界の端からつい、と掌が差し出された。

「受け容れちまえ。『人間』である以上、君は綺麗者には成れんのだから」

 そうしてそれは皆同じこと。
 他者を嘲り見下して、他者から蔑まれ疎ましがられるしかないから。
 藁であろうと丸太であろうと、救いを求めて縋り付く。
 汚れをなすりつける場所を求めて、泥にまみれた手を伸ばす。

「この先も人としてやっていかねばならん身ではないか」

 認めちまえよ。そうすれば幾分、楽になろう。
 そう促されて怖ず怖ずと握り返した手は、存外に硬く凸凹としていた。
 瞬いてよく見てみると、鳥の趾(あしゆび)の如く黒く骨張って、爪も長い。

「信仰と義務を混同してはならんぞ坊や。そこをはき違えたまま進み行くことは、何れ心身を荒廃させる」

 声を追って、視線を上げる。
 『人間の頭部』を脱ぎ捨てて、『鴉頭』の彼は諭す(いう)。

「君は荒むにはまだ早い。もうちっと好き勝手生きて暴れて、愉しんでからじゃなきゃあ!」
「あ──貴方は、どうして──」

 どうして、僕に。僕の、前に。
 手を掴まれたまま、訳も分からずそう問えば。

「あ、自惚れるなよ。『伸ばした趾の先に偶々いたのが君だった』というだけだ」

 『手』、ともいうかもな。
 ふざけた一言が付け足されたその直後。
 声を発する間もなく僕は、ぐん、と引っ張り立たされた。


「大丈夫かい兄ちゃん!」
「え、」

 先程とは似ても似つかない声質と口調に瞬くと──
 日に焼けた顔のおじさんが、煙草の匂いを纏わせた吐息を白く染めていた。

「ドシーンなんて、後ろですげえ音がしたからよ! また派手に転んだなあ!」
「え、あの──あ、はは」

 毛糸帽子に青いヤッケと、履き古して紐がぼそぼそに毛羽立った靴。
 近所を歩いていて知らずに何度かすれ違ったことがありそうな、いわゆる『地元の人』らしい風貌で。
 そんなおじさんの声は年代性別の特有なのかあまりに大きくて、近くを彷徨く何人かの視線が無駄に集まってくる。
 一体何がどうなったのか──場面も人も唐突に変わりすぎるせいで状況が把握しきれない僕は──それでも咄嗟に、曖昧なリアクションを返す。

 ──あの。
 どちらかといえば色白肌で、オールバックの黒髪の、鼻下に黒い髭を生やしていた『彼』とこのおじさんとは、どこからどうみても別人で。
 人で賑わう境内のどこを探しても、当人の姿は見付からない。

 あまり頻繁には見掛けない、特殊なデザインの着物の上下も。
 壊れたからくり人形のようにケタケタと声を上げていた崩れた横顔も。
 およそ人のものとは思えない、先端が二股に割れた黒い舌も。
 そっと触れた掌の、鳥の趾そのものなごつごつしい感触も──
 全部、一つ一つ鮮明に覚えている。

 いたのに。
 確かに目の前で、話して、笑われて。
 差し伸べられた手を、掴んだのに。

「あ──ありがとうございました」
「おうっ。人多いからよ、ちゃんと周り見て動けよ!」

 また転ばねぇよう気ィ付けな、などと笑いながら。
 どこの誰とも知らない人の良さそうなおじさんは、人海に紛れて去って行く。


 見送った後にふと思い出して、足下へ視線を落とす。
 白昼夢めいた幻覚を見て取り落としたおみくじはやっぱり、見当たらない。

 また、引き直そうか。
 『彼』と話す前に用意した選択肢を、また頭に思い浮かべてみる。
 確かに『そうしたい』という小さな欲が素となって閃いた案だったはずなのに、今はちっとも魅力を感じない。
 おみくじに書かれていた内容もまだ覚えている。でもそれも、信じたいとは思わない。

 僕は多分、何も変わっていない。
 でも変わっていないなりに、何だか、ひどく『納得』した。
 すとんと、心が落ち着いたような──何となく、しっくりきたような。

 ああ、そうか。と、そんな感じに腑に落ちて。

 小雨をしっとりと浴びながら、身軽な体で帰路に就いた。

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