高い柵を踏み越えた先で、改めて空と向かい合う。
目の前に広がる色は本当に真っ青で、所々にふっかりと浮かぶ白色の高純度さも相まって、まるでキャンバスに描いた『青空』そのものだ。
高層ビルや住宅街の都会迷路を見下ろさない限り、意識しない限り──青空はどこまでも深く遠く、広がっている。
でもまあ、『今のあたしは』一度は街中を見下ろす必要があるだろう。
だって、詩的に表せば『青空に呑み込まれに行く』わけだけど──
現実的に言うなれば、これはただの『飛び降り自殺』ってだけだから。
「──めっちゃ良い天気じゃん今日」
つい昨日まではあんなに大粒の雨が降り注いでいたはずなのに。
どうしてこう、掌を返すようにコロッと変えられるのだろう。顔色を。
親も、友達も、皆そう。
コロコロ顔色を変えるから、面倒くさくて嫌になる。
愚痴を聞かせれば薄っぺらい励まし方で誤魔化して、別の日には自分がいかに可哀想かを主張して。
あたしがどんだけ辛い思いしてるかなんて知らないくせに、知ったふりして。
女心と秋の空がナントカ、って誰かが言っていた。
腹の具合と二枚貝がナントカ、って感じで、皆で食中りにあってくれたらいいのにな。
なんて馬鹿らしいことを頭の中で転がして、うふ、と吹き出して。
ああ。今いいな。
笑顔で行こうと思っていたから。今この笑顔が消えないうちに。
さて、それじゃあ行こっかな。
とばかりに、柵を掴む指を意識する。
思い切りよく、するり、と力を抜くはずだった。
「あんた、笑うと可愛いな」
頭の上から、嗄れた声が振ってこなければ。
バネのように、がば、と勢いよく振り仰ぐ。
白く塗装(ぬら)れた柵の、上。長くて細い横一辺に──
薄汚れた身なりの猫背な『オッサン』が。
でん、と尻肉をそこに置いていた。
「え何。オ──え、オッサン誰よ」
というか、いつからそこに座っていた。
いや、『いつの間にそこに座った』んだ。
だって、あたしがここに来た時点で周りに人気はなかったはずだ。
それこそ『不自然なほどに』──車さえも、見当たらなくて。
平日とはいえ大型スーパーだから、いつもなら三、四台は留まっているのに。
飛ぶ前の下見がてらに来てみたら、運良く誰もいなかった。
だから。
『今日にしよう』って、決めたのに。
「いつからって、さっきからずっとここに居たぜ」
オッサンはあたしを見下ろして、くつくつと笑い声を含ませた。
くたびれた抹茶色のジャケットの下に、ベージュ色のしわしわTシャツが覗く。
こっちの質問への答え方も、『声に出した方』じゃなく『心の中で浮かべた方』に向けて返してきているところがまた、薄ら気味悪い。
「何。オッサンも自殺志願者なワケ?」
「いんや? そういうお嬢ちゃんはどうなんだ」
オッサンは口の両端をにたり、と吊り上げて否定した。
そんな様相でそんな顔をするものだから、続けざまに返された質問が何だかひどく意地悪なものに聞こえてならなかった。
表情筋に引っ張られた皮膚を突き破る顎髭は不揃いで短い。およそスタイリッシュとは言い難い、野暮ったい服装も相俟って無精髭にしか見えないが──あたしの見解は多分合っていると思う。
「わざわざ聞かなくても、見れば分かるでしょ」
「見ただけじゃ分からねえことだってあるさ。ま、今回はそっちが先に自己紹介を済ませてくれたから野暮な質問になっちまったがな」
「自己紹介って?」
「あんた今、『も』っつったろ」
同類だと思ったんじゃねえのか。
オッサンは空を仰ぐように首をこきり、と鳴らし──
「おれをさ」
そう付け足して、流し目をくれた。
「オッサンさ、意地が悪いってよく言われるでしょ」
「確かに昔はよく言われてたな」
うっすらと毛の生えかけた喉から、ひひ、と細い笑声が漏れる。
落ち着いて尻を置けるような場所でもないのに、オッサンの体は柵の上の──その横に伸びるパイプの狭い面積の上で、揺れもせずぴたりと留まっている。よほど体幹が強いのか。
まるで『サル』だな。
ぽつりと思った、その刹那。
「ひ、ひっひっひ! きひひっ、『サル』か! そいつァいいや」
不意に──
オッサンの口から、二文字分の名詞が吐き出された。
「は」
唐突だった。何の脈絡もなかった。
本当に突然、でもそれは確かに。
確かに、あたしが『心の中だけで浮かべた』名称に違いはなくて。
「お嬢ちゃん、なかなか見る目あるな」
オッサンは肩を震わせながら、吹き出した際に垂れた頭を上げる。
感心されたところで、薄気味悪さがより一層強まっている今は照れる余裕すらない。
やっぱりそうだ。このオッサン──
あたしの心ん中、『読んでる』。
二度目に心情を言い当てられたところでようやく確信した、刹那。
ひときわ大きく跳ねて膨らんだ心臓を、引き裂いて。
『白いゼラニウムの花』が、胸から飛び出した。
「ひいッ」
空気に晒された白い蕾は、ベルトを外した傘のように弾け開き。
虫食い穴の如く小さな出口をこじあけた茎は、天へと伸びて。
皮肉と布地の、繊維の隙間は更にみぢみぢと広げられ。
葉は胸を覆うように、わさわさと這い進む。
痛みはない。血も出ない。
むやみに寂しくて、辛くて、悲しいだけ。
親も友達も皆、どうでもいいような、気がするだけ。
ゼラニウムの群生は、太陽を独り占めしようと伸びていく。
まるで、あたしから光を奪っていくようで。
誰からも愛されないお前は日陰で充分だ、と言っているようで。
澄んだ青色さえ見せないように、寄って集って――
不意に。
横合いから伸び来た腕が、群生する茎を引っ掴んだ。
「『あんたが疑るから、周りもあんたを疑るのさ』」
ざらざらとした低声に、オッサンの存在を思い出す。
「好意は『寄せられて当たり前』ってわけじゃねえ」
足の裏から、コンクリートの感触が薄れていく。
重心が前へ傾いて、下方からの風に髪が煽られる。
町の景色が急に、ぐらりと傾いたような気がして。
と――肩を引かれ、背中を柵に打ち付けた。
「いたぁ」
肩と背中のじんじんとした痛みが、『生』を主張する。
落下の感覚を疑似的に味わったせいだろうか。足が勝手に後ろへ下がろうとする。『行こう』と決断したはずなのに、意思に反して体が竦む。
『怖い』と、心が訴える。
「『戻る』んなら手伝うぜ」
気遣う声に呼ばれて、ようやくあたしは我に返った。
青空が見える。太陽が眩しい。
ついさっき視界を覆った白い影は、どこにも見当たらない。
「落っちまったら困るだろ」
降ってきた声に顔を上げれば、オッサンはまだそこで笑っていた。
細めた目も口の湾曲具合も変わらないはずなのに、今はどこか温かみを帯びているように見える。
その笑顔に惹かれて、青空に背を向けて柵を掴み──
思い出して、留まった。
「でも、あたしが柵を越えたのは」
「『死にたいから』だろ。知ってるよ」
あたしの答えを遮ると、オッサンは悩ましげに眉を潜めた。
「白いゼラニウムの花言葉、何ていうか知ってるか」
花言葉。
似合わないなと、まず思った。
そんな身形で、そんな綺麗な話を持ち出すなんて。
分からないので黙っていると、
「『あなたの愛を信じない』」
ちくり。
と──心を針で触れられた気がした。
「なあ。赤の他人にこんなこと言われんのは嫌かもしれねえが」
オッサンは頭を掻き掻き、気まずそうにそう続ける。
予防線を張るような前置きの後に掛けられたのは、
「『まだ』、死ななきゃならねえ程に切羽詰まってもいないんじゃないか」
安っぽい、説教めいた一言だった。
「──はあ?」
何を言い出すんだこのサルオヤジ。
ありがちな引き止め方に、危うく暴言を吐きかける。けど、心に浮かべた文句を舌に載せるよりも、オッサンが二の句を継ぐ方が速かった。
「ほんの少し意識するだけで、世間の見え方ってのは変わるもんだ」
経験というものを、人より優位に立つための道具としてしか扱わないタイプが言いそうな中身だ。
結局はこのオッサンも、若者を相手に説教がしたくてたまらない類の人でしかないということを思い知らされたようで、ショックだった。
ショック、だなんて。
まるであたしがこのオッサンを特別視していたみたいじゃないか。
この人なら分かってくれるかも、なんて、そんな保証はどこにもないのに。
「親でも気取りたいの? あたしのこと何も知らないくせに」
「もう知ってるよ」
オッサンは苦く笑って、片手を挙げる。
「それ、」
握られていたのは。
ゼラニウムの『白』い花束だった。
「友達(ダチ)と反りが合わない、親が話を聞いてくれない、のけ者にされている気がする」
「分かる、の」
「分かるさ。『これ』は」
揺さぶられた花束の、白い花弁が指差すようにあたしを見る。
「お嬢ちゃんの『心中毒草』だからな」
しんじゅう、どくそう。
指された箇所──花が突き破った胸の穴へ、視線を落とす。
破けた服の隙間からは、生白い『芯』が飛び出ていた。
「何これっ」
ぎょっとして引き抜こうとするも、びくともしない。
『それ』は根や茎にしては太すぎる上に、妙な肉々しさもある。
肘裏の皺のような折れ目も相俟って、人間の腕を彷彿としてしまう。
「止めときな。それは『今のあんた』じゃ取り除けねえよ」
芯を引っ張ったり捻ったりしていると、オッサンが制するようにあたしの手を掴んできた。
皮が剥けちまうぞ、と短く付け足すのを聞くに、多分見かねたのだろう。
「どういう意味。毒草って──何で、こんなのがあたしの胸から」
「『毒』ったってただの暗喩だ、死にゃァしねえ」
大丈夫だ、ちゃんと助けられるから。
利かん坊を宥めるように言い聞かせる声が耳に入ると、パニックになりかけた心が少しは落ち着いた。
得体の知れないものへの恐怖を払拭できたわけじゃない。
けど、真っ暗闇でも懐中電灯があれば小さな安堵を得られるように──独りじゃなく、誰かが近くにいるという現実が、あたしの理性を取り戻させた。
「ねえ──何が起こってるの。オッサンの言うナントカ草って、何のこと」
「名前の通り、『心の花』さ。辛いこと悲しいことを養分に生長して、開花する」
説明を聞いてふと思い立ち、胸から垂れ下がるそれの先を追う。
芯の先端は、オッサンが持つ花束の茎一本一本に繋がっているようだ。
「開花すると、どうなるの」
「大抵は『さっきのあんた』みたいになるな」
さっきの、あたし。
辛いことも悲しいことも、皆どうでもよくなって。
あんたなんか要らないって、言われているような気がして。
「『要らない』なんて、誰からも言われちゃいないだろ」
あんたが勝手にそう思ってるだけでさ、なんて。
誰でも思いつきそうな台詞を再び掛けられて、束の間の腹立たしさを思い出す。
「言わないだけで、皆思ってる」
「本当にそうなら、『好意』だって向けちゃくれないさ」
「向けられたことないよ、そんなの」
あたしは自分を知っている。皆の態度を見れば、どう思われているかも大体分かる。
オッサンは『そうかぁ?』と惚けつつ、わざとらしく小首を傾げてみせた。
「あるはずだぜ。親御さん、友達(ダチ)、職場の同僚」
「ないって。皆あたしのこと嫌ってんだから」
「出がけに電話が鳴ったろ。誰が、何の用で話したがってた?」
実際に隣にいて全てを見ていたかのような、確認的な口調だった。
的確な指摘がどうしても当てずっぽうには聞こえなくて、あたしは素直に記憶を遡る。
──世の中への不満を殴り書いたメモを、ポケットに突っ込んで。
──鞄も持たずに靴を履いていたら、無機質なコール音に止められて。
──無視してもよかったけど、最期の通話だからと気まぐれに受話器を取って。
そうしたら。
『美佳。久しぶり、元気? 病気とか、してない?』
お母さんの、声が。
昔と変わらない、呑気そうな声が。
「昨日スーパーで、昨今の不景気についてぼやき合った相手は、誰だっけか」
──レトルト食品の並びで、偶々出会して。
──お金のやりくりについて愚痴を吐いて、共感して。
『長い付き合いなんだし、何かあったら気軽に連絡して』
あの子はへらへらと笑いながら、冗談みたくそう言って。
カゴを重そうに持ち直して、子どもの手を引いてレジに向かっていった。
「仕事中にあんたの体調を気遣ってきた子、色々とよく気が付いて、良い子だよな」
──目の疲れが引き起こした頭痛に顰め面をしていたら。
──頼んでおいたコーヒーと、頼んでいない焼き菓子を載せたトレイを机に置いて。
『川中さん、少し休まれた方がいいですよ。その間は私が窓口座ってますから」
彼女の気配りは、遠回しに追い払おうとしたんじゃなくて。
あの子の笑顔は、社交辞令の定型文をただ口にしただけじゃなくて。
「ただの──」
お母さんがいちいち電話を掛けてくるのも。
本当に心配しているからこそ、なのかもしれない?
「付き合い、じゃん。表面上だけだよ。好意なんかじゃない」
「高い理想で相手の心を選別してたら、『愛』なんてモンはずっと見付からねえさ」
それは。
例えるなら、目の前で光が弾けたような感覚だった。
頬を張られたわけじゃない。怒鳴りつけられたわけでもない。
オッサンの顔は穏やかで──噛み付いてやりたいくらい優しくて。
でも、『戻るために』柵を掴んだ両手は、どうしても離す気になれなくて。
「『信じてみな』。ほんの少しでいいから」
「だって、そんな──今更、生き方を変えたってもう」
『アクセルをふかす音』が、聞こえた気がした。
不安混じりの反論を途中で切って、耳を澄ます。
柵越しに通路を窺うも、どこにも車らしき影は見当たらない。
死角になっているだけかもしれない。建物の柱や壁に遮られているだけで、もしかしたら。
「今見付かったら、怒られるかもな」
オッサンがぽつんと零した──どこか他人事のように淡泊で、冷たくも熱くもないその一言に背中を押され、急いで柵に乗り上がった。
「ほら、早く」
「分かってるよっ」
懸垂の要領で何とか胸部を上に乗せる。随分と苦労して乗り越えた一度目と比べると、割とすんなり上がれた気がする。
周りに人気のなかった初回と違って、『見付かるかもしれない』という焦りに突き動かされているからだろうか。火事場の馬鹿力とかっていうもんな。
「あと少しだ、踏ん張れ」
嗄れた低いその声が、すぐ耳元で発される。
乗り越えついでに隣を見ると、オッサンとの目線の距離が大分縮まっていた。
丸まったもみあげといい伸びっぱなしの襟足といい、やっぱりサルに似てるなぁと場違いに呑気な感想を抱きつつ──視線を前方に戻すまでの、その一瞬に。
生白い、『人の手』のような根が。
胸の穴から抜け出ていくのが、確かに見えた。
「──大丈夫かい」
地面に両足を付けるや否や、再び声が頭上に降ってきた。
ぶおん、というエンジン音と共に軽自動車が姿を現したのも、そのタイミングだった。
あと少し乗り越えるのが遅かったら、不審者扱いされたり警察を呼ばれたりと、騒ぎになっていたかもしれない。
回避できた未来の光景を想像して、改めて安堵の息をつく。
服の皺を叩いて伸ばしながら振り仰ぐと、オッサンはまだ柵の上に座っている。
平気、と答えようとして、胸の違和感がいつの間にか消えていることに気が付いた。
見下ろすと、そこには『何もなかった』。
でも、さっきは確かに『穴』があった。服も体も、繊維が千切れて広がっていた。
蕾が突き出て、葉が生え広がって、開花して。
人の腕みたいに太い根が、胸の中央から伸びていたはずだった。
見間違いか、と再び顔を上げてみる。
オッサンの手の中にはさっきと変わらず、ゼラニウムの花が白い束になっている。
茎の先端に垂れ下がる『それ』も──
ついさっき見た『人の手』そのものの形を、ちゃんと保っていた。
「取って、くれたの」
「いや。あんたが『自分で』抜いたんだ」
説明を乞うように、眉根を寄せる。
色々なことがいっぺんに起こりすぎて、このオッサンに心を読まれること自体にはもう不思議とも不気味とも思わなくなっている自分がいた。
「あんたが『これ』に執着しなくなったから、根ごと綺麗に抜けたのさ」
「あたしが、『それ』に?」
確認のつもりで花束を指差すと、オッサンは目を細めて頷いた。
「さっきおれが教えた花言葉、まだ覚えているかい」
「ええと──『あなたの愛を信じない』、だっけ」
「それが毒の『核』だったのさ。あんたがずっと取り付かれていた、負の感情だ」
ちっとは胸が軽くなっただろ。
具合を聞かれたがすぐには答えを返せず、あたしは自分の心を思ってみた。今、どんな気持ちでいるのかと──自問自答するように、浅く思考を巡らせる。
詰まっていたものが取り除かれたような、すっきり感が確かにある。過去を思い出す度冷たく荒んでいた心が今は暖かで、自分の言動に対する後悔の念が浮上する。
「軽くはなったけど──不安が、まだ抜けてない気がする」
「何、他人を思いやれるぐらいには心に余裕ができたってこった」
それだけあんたが優しくなったって証さ。
初めの頃と同じような笑みを浮かべて、オッサンは最後にそう付け足してきた。
褒められているのか、からかわれているのか──どう反応していいか分からない。とりあえず、気恥ずかしさで顔が熱くなるのを気取られないように、クサい台詞、と顰め面を作ってみせた。
「言ってて恥ずかしくないの」
「さあて、な。何せおれは『サル』なものでね」
人の心はまだ勉強中さ。
そんな戯けた言葉を挨拶に、オッサンはあっさりあたしに背中を向けた。
「あ、待ってよ。その花どーすんの?」
「生花と一緒だよ。まあ枯れるまでは面倒みるさ」
害はないのか、と聞きかけた時──。
もっと重要な疑問を、出会った時から抱き続けていたことを思い出した。
「ねえ。結局、オッサンは何者だったの?」
まだ聞きたいことが残っている。
あれだけ心を読んでみせていたオッサンがそれに気付かないはずはないだろうに、当の本人は店の出入り口に向かってさっさと歩いて行く。
じわじわと開く距離に焦らされるように、気持ち声を張り上げた。
「多分、お嬢ちゃんはもう知ってるよ」
オッサンは意地の悪い笑みと共に、ちらりと振り向いただけだった。
人の心は勉強中だの、自分はサルだの──およそ人らしくない、そのふざけた物言いには、反して悪意はちっとも含まれていない。ように、聞こえる。
ただ、名乗る気はないということだけは察せられた。
釈然としないまま遠ざかる背中を見送りながら、ふと思う。
人の心を読むサル、ってもしかして。
「ねえオッサン!」
呼び止めるべく再度声を張り上げるも。
瞬きをする間に、その姿は忽然と消えていた。
「──意地悪だなあ」
それこそ、最初から最後まで。
思わずぼやいてしまったものの、今更驚きはしなかったし、腹も立たなかった。
何となく、予想が付いていたからかもしれない。
ただの暇潰しだったのか、それとも本気で止めにきてくれたのか。
今となってはもう、答え合わせもできやしない。
でも、
「──いいよ、もう。勝手に好意として受け取らせてもらうから」
そういうことにしておこう、と決めつけて。
晴れ渡った青空を、柵の内側から改めて眺めることにした。